리포트 제출합니다.
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4 댓글
2015-04-05 18:37:27
하이에크 코멘트 (감상)입니다.
今まで「個人主義」、「社会主義」、「自由主義」について、これらの概念の基本的な意味と主張することについて勉強した。しかし、本と自分が感じていた概念と現実での意味合いへの疑問がこの論文から少し、理解が出来たと思う。事実、これらの概念は、何の主義と名づけられた以降、今まで単一で堅固な意味、または、肯定的解析を持ってなく使われてきた。これらの概念は自分の目的に合わせて使おうとする集団と人々が言及するたび、目的に合わせて変化してきた。
本論文で言及された、概念での意味の相違をハイエクは翻訳からの混同だど指摘することから、環境、人においてこれらの概念への意味の相違、自分が今まで個人主義の意味や歴史について勉強しながら感じた実際に今、大陸=ヨーロッパと欧米=アメリカ、オーストラリア の個人主義への異なる意味合いがどうやって始まったかについて理解できる話であった。これらの概念の差は英語圏と大陸(ヨーロッパ)を分けて、英語圏の個人主義が徹底的に国家主義と社会主義に反対の立場であったのに対しヨーロッパの個人主義は国家主義と社会主義を大目にみることからも現に実際の国から感じた’集団的行動’への理解が違う理由がわかってきた。
ハイエクは個人主義を「真の個人主義」と「合理的(偽りの)個人主義」を分けて、個人主義が同一な名で主張する人によって、互い反対する原理に分けられることを指摘する。「真の個人主義」は民主主義の基礎になれるが、合理的個人主義は社会主義に流されることを指摘する。これらの二つは「同等」「平等」という意味を共通にもっているが、その意味の相違は大きい。前者は自由と同一のスタートを保障することならば、後者は強制とすべての人々を同一にさせることを意味する。自由の中での同等と拘束、従属の中での同等は大きな相違が存在する(トクビル)。
普段に我々が理解する「個人主義」は完全なる個人の自由を意味すると思いがちだが、ハイエクが主張する真の個人主義とは個々の自発的な協同で集団の強制を最小化することを意味すると理解される。規則や規律が必要ではないことではなく、互いの規則や規律が強く働き、外部の集団すなわち政府や国家の強制を最小化することを意味する概念である。
個人が自由になるためには最小限の強制、規律が必要でそれを政府・国家に一任するが、かれらの強制と規律が適正な水準を超えないよう、始終関心をもち、警戒することが個人の責任であることが個人による正しい個人主義からの自由、民主主義ではないかと思った。
2015-04-06 02:27:03
『個人主義と経済秩序』の第一章の主な内容というと、やはりこの二つの伝統の比較である。ここで焦点を当てたのは、個人主義とは言え、「真の個人主義」は個人をあまり信頼しなかったことである。18世紀のイギリスの思想家たちは、人間をきわめて非合理的で誤りを犯しやすい存在であるとし、その個々人の誤りは社会的過程を通じてのみ訂正されると考えた。主要な論点は、スミスの言葉を借りると、人間が最良の状態にある時にたまたま達成しうることに関心があったわけではなく、最悪の状態の時に害をなす機会をできるだけ少なくすることに関心があったということである。むしろ、社会主義・集産主義に展開される「偽の個人主義」の場合、発見しうる全ての秩序を人間の意図的な設計によるものとし、これは人間の理性を強く信じていたと言える。これに対し、当然ハイエクは個人の理性の力に過大な信頼を置きたと指摘した。
さらに、個人主義体制の基礎をなす最も一般的な原理(社会秩序を作り出すための手段として使用する)で「真の個人主義」は、人間は全能ではないので、個人に自由が与えられ得る唯一な道は、個人が決定権を持つ範囲を定めることであると主張した。逆説的にも個人主義的秩序は、強制的権力の行使を方法として、最も効果のある規則の立案に関して人間の創造力を発揮させる。
国家や社会より個人を優先する思想である「個人主義」が、実際人間の性悪説のように人間への不信から発展してきたというのが最も印象に残る。寧ろ人間の理性を強く信頼していた「偽の個人主義」が社会主義・集産主義へと展開せざるを得なかったのかが不思議である。
2015-04-06 08:27:01
真の個人主義の本質的特徴とは一体何であろうかと言う質問に対する答えは二つある。
まずは一つ目、社会的理論、すなわち人間の社会生活を決定する藷力を理解しようとする試みであることであり、二つ目は社会についての見方から導き出される一組の政治的な確率は第二義的なものに過ぎないということである。この事実はそれだけで次のような個人主義に対するありふれた誤解のうちでも最も馬鹿げたものを論破するのに十分である。そうするとその誤解とは、個人主義は、社会の中に存在することによっておの全体の本質と性格が決められている人間から出発するものでなく、独立した個人または自足的な個人の存在を前提にしているという確信のことである。もしこのような確信が正しいものであったとすれば、個人主義は社会についての我々の理解に何ら貢献するところがないであるだろうと筆者はいう。しかしながら個人主義の基本的な主張はこれとは全くことなったものなのである。
この章で筆者は真の個人主義の本質的な態度は個人によって設計されたものではなく、また理解されたものではないにもかかわらず、個人の知性を事実はかるに越えるような偉大なことを人類が達成してきたその過程に対する謙遜な態度であるということであると指摘している。
2015-04-06 12:22:45
今まで個人主義やあらゆる理論を見てきたが、我々が使用している用語や理論の正確な定義がそもそもあるのか。結局、個人であれ社会であれ、決められた枠組の中で意味が存在するのではないかと思うので、それを真の意味であると決めるのができるかについての疑問がある。ハイエクが語る真の個人主義は、まず民主主義を信じることから、個々の個人を認定することに私も個人的に同意したい。また、自由という単語に伴う責任について考える必要があるのではないかと思う。